信長の野望・創造 戦国立志伝 テキストリプレイ 初級:内藤昌豊で武田の旗を京に立てる!Part.3

合戦が始まるぞー!

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1543年6月:いよいよ戦の気配

前回の最後で登場した『百足衆』ですが、武田における連絡将校の呼び名です。可愛らしく言えば連絡係。なお、「信長の野望・創造」のゲーム中にこの名前が出てくるわけではないので、誤解を招いてしまったら申し訳ないですが、臨場感を出すべく、本リプレイ内ではあくまで『百足衆』と呼ばせて頂きます。

さて、評定の席で、お館様は新たな主命として「海ノ口城(うんのくちじょう)攻略準備」を命ぜられました。さあ、戦だ!と気張りたいところですが、まともな軍備を領内に整えていないそれがしに、出陣の沙汰が下ることはありますまい。ということで、引き続き頑張って普請&普請です。

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ちなみに、海ノ口とはこのあたりですぞ。

マップを拡大すると、駅名にその名前が見て取れますね。海ノ口(うみのくち)という読みのようですが。
山のど真ん中なのに「海の口」とはなんぞ?と思うところです。遡ること平安時代。山が水蒸気爆発を起こして多量の泥流が発生。千曲川の流れが変わり、複数の湖が発生します。そのうちの一つの湖は「南牧湖(みまきこ)」と呼ばれ、その湖へと水が入る地点が「海ノ口」と呼ばれたそうです。当時は湖を海に見立てておったのですな。その後、時間の経過と共に湖は消滅してしまい、地名だけが残ったとのことです。(参考:南牧村ホームページ 南牧の歴史

いやはやさておき、峩々たる山険にて、敵に攻め上りたいと思わせぬような場所ですな。

さて、我が領地を見直しましょう。進出によって開発できる土地が増えたので、収入増を狙ってどんどん普請をしたいところ。しかも、どうやら新たな土地には温泉が出るようなので、これも生かして領地を発展させるのも手か。

色々思案しておりましたら、お館様御弟君の信繁様が来訪。特に脈絡もなく、よい場所だと褒めてくださいました。唐突な出来事に驚きは致しましたが、よい場所だからこそ、よい町造りをしていかねば!さあ頑張ろう!…と、張り切って領内を見回っていたら、町娘が「もっと別のもの建てればいいのに、領主様は全然わかってないわ」などと立ち話をしていたのが耳に入ってしまう羽目に…。うう、それがしの内政は民には評価してもらえておらぬのだろうか…。

傷心のままに屋敷に戻ってみると、またもや百足衆が。何ごとかと問うてみれば、なんと海ノ口城へ出陣のお下知とのこと! あれ、予定にないよ早いよ。…戦じゃ、甲冑をもてィーッ!!

1543年7月 海ノ口城攻防戦

物見の知らせによれば、海ノ口城を守る敵将は、山内上杉家の笠原清繁率いる兵は600余りとのこと。

我が方はお館様自ら3000の兵で攻め寄せられましたが、出陣の下知を受けた家臣は、どうやらそれがし内藤のみ。従って、我が手勢500を加えた3500が武田の総勢ということになります。

信長の野望・創造 戦国立志伝 プレイ画面
力攻めにつぐ力攻め!
(信長の野望・創造 戦国立志伝)

お館様の御前で、(軍事関連の施設が武家町だけというのはさておき)日頃鍛錬した我が内藤勢の強さをご披露いたさねば!と勢い込んで城へ迫りましたが、逸るお館様が真っ先に城へ打ちかかり、それがしはその後を追うばかり。前へ進もうにも、お館様の備えをかき分けて出ていく訳にも参りません。しょうがない、後ろで見ていよう。\ガンバレー/

とはいえここは戦場。後備えであっても城内より矢石の馳走を多く受け、数多くの兵が傷ついてしまいました。損害を顧みないお館様の攻撃で、ついに8月に入って笠原勢は総崩れ、城は武田のものとなりました。いやあ、総大将の後をついていくだけで勲功を300も頂けるとは、なにやら本当に申し訳ない。

しかも翌月には組頭に任命していただけました。これは家中での役職が1つ上がったということ。しきりと我が領地にやってきては適当な助言をしていく秋山も、ちょっとはうらやましく思うでありましょう。

しかし、こたびお館様の城攻めを拝見して分かったことは、とにかく城門を攻撃して天守へ迫る、攻撃側はその一手ですな。それがしの記憶では、昔は堀を埋めたり、壁を打ち壊したりという城攻めができたように思いますが、今の戦国の世では、戦術を使いながら城門攻撃というのがスタンダードということになるようです。兵の損耗はある程度仕方がありませんな。