マルコポーロの旅路(原題『Auf den Spuren von Marco Polo』)の人物について紹介してみた
- マルコポーロの旅路 原題『Auf den Spuren von Marco Polo』(ボードゲーム開封編)
- マルコポーロの旅路 原題『Auf den Spuren von Marco Polo』(ボードゲームプレイ記録編)
【人物紹介】
与力藩の買掛担当。何でも辞書を引く癖があります。
奉行藩の決裁担当。今回これだけ話を聞いてるけれど、ちゃんと覚えるのか怪しい。
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奉行ときに、与力よ。
与力はっ、なんでございましょうか。
奉行わしはさほど歴史に通じておらぬ。マルコ・ポーロは「黄金の国じぱんぐがどうこう」という本を書いたと知っておる程度だ。
与力はあ。『東方見聞録』のことですか。
奉行したがって、この『マルコポーロの旅路』に登場する、その他の面々について、今一つぴんと来ぬのだ。
与力ああ、なるほど。Wikipediaとか見ればだいたい分かるかもしれませんが…
奉行一人ずつ調べるのもなんなので、まとめて説明してくれぬか。
与力確かに知っているのといないのとでは、大分この親父どもを見る目も変わりましょうからな。では簡単に見てまいりましょうか。
キャラクター① ラシード・ウッディーン・スィナーン(1125?~1195?)
シリアにおけるシーア派・イスマーイール派・ニザール派の中核的存在であるダーイー(宗教宣伝者・指導者)。
与力誤解を恐れずに簡単に言えば、イスラム教の宗教指導者ですかね。
奉行なんとか派、なんとか派と難しいのう。これはあれか、宗派のようなものか?
与力イスラム教は「誰を最高指導者として認めるか」によって、分派いたします。彼もそうした分派の長だった訳です。
奉行さようか。
与力まあ、彼が生きていた時代のシリアは、イスラム教徒同士の主導権争いに、欧州の十字軍が乱入してきて、大分混乱の坩堝でありました。そんな中、彼はある時は十字軍と手を握り、ある時はイスラムの英雄サラディンと組み、と、生き残りに必死だったようです。
奉行宗教家なのに大変な苦労をしておるな。
与力そんな中でニザール派をまとめ、勢力を維持するために彼が育てたのが「フィダーイー」という戦士です。
奉行ふぃだーいー?
与力はい。彼らは「ある理念に忠誠を尽くし、そのためにはあらゆる自己犠牲をいとわない」とされる人々でして。ラシード・ウッディーン・スィナーンは、このフィダーイーを単なる戦士としてのみならず、敵対者の傍へ密かに送り込む暗殺者「アサシン」としても用いました。
奉行なんじゃと。
与力彼と彼のフィダーイー達から生まれた伝説が、かの有名な“山の老人”と“アサシン教団”ということになります。
奉行むむむ、宗教家にとどまらず、忍びの頭目でもあったとは。
与力大勢力の中で生き残るためには、非常な手段も採らざるを得なかった、ということなのでしょうか。とはいえ、彼が活動したのは12世紀の後半でして。マルコ・ポーロが産まれるより60年ほど早く生きた人です。
奉行なるほどのう。そこはまあ、戦国を題材にしたびでおげーむのようなものじゃな。
与力ちなみに、「ラシード・ウッディーン」だけですと、『ジャーミー・アッタワーリフ』という歴史書の著述者として有名なガザン・ハン国の宰相の方が有名かもしれません。
奉行そろそろこんがらがってきたゆえ、次に参ろうか。しかし、伝説をも生み出す存在であるが故に「賽の目を自由に決められる」などという恐ろしい能力者とされたのであろうか…最初は何事かと思うた。
キャラクター② マテオ・ポーロ(???~???)
マルコ・ポーロの叔父で、フビライ・ハーンの要請によって東西の旅を二度にわたり敢行。
与力この人はいわゆる商人ですね。名前は「マフェオ」表記が多いですが。
奉行普通の商人か。
与力はい。前歴はしかとは分かりません。兄弟でマルコの父にあたるニコロと共にコンスタンティノープル(現・イスタンブール)に住んでいたようですが、一説には1253年あたりにロシアのボルガルへ向かう際に、中央アジアのブハラへ至ったとき、モンゴルの使節に出会ったそうで。
奉行ほほう、それで?
与力欧州を見たことが無く、欧州人に会いたかった当時の大元皇帝フビライ・ハーンのためということで懇願されたのでしょうか。彼ら二人は元の首都である大都(現・北京)へ向かい、謁見しました。
奉行なんじゃ、マルコの前にもう行っておったのか。
与力フビライは大層喜んだそうで、彼らを歓待し、様々な質問をした後、ローマ教皇への親書を渡し、自分の特使として欧州へ帰らせました。
奉行うまい具合に使われておるな。
与力このときフビライは、「ローマ教皇の親書を受け取ってくること」「宣教師100人を派遣してもらうこと」「エルサレムのキリストの墓前にある聖なる油を持ってくること」という任務を二人に託しています。そのため、二人はニコロの息子・マルコを連れて、二度目の東行に挑むことになるわけですね。
奉行フビライのために、律儀なことであったのう。
キャラクター③ ニコロ・ポーロ(???~???)
マルコ・ポーロの父。年若いマルコを連れ、フビライ・ハーンに仕える。
与力というわけで、マテオの兄弟でマルコの父です。
奉行おおむね、マテオの所で説明してもろうたな。
与力彼らがフビライの親書を携えて帰欧する際には、フビライから元の領内を移動する際の安全が保障される「駅伝手形」を受け取っていたそうです。
奉行通行手形のようなものか?
与力いえいえ。皇帝から発行される「鋪馬聖旨」というのがそれのようでして。これを所持していれば、各地に建てられている「ジャムチ」という公用の“駅”が利用できるという特権を得られます。
奉行ふむ?
与力駅では宿泊と食事、必要であれば馬も供されます。こうした駅が元の領内には無数に配置されておりましたゆえに、兄弟二人の旅路は楽であったと思いますぞ。
奉行ほおお。
与力ちなみに、彼が帰欧した1271年当時、ローマ教皇位は空位になっていて、次のローマ教皇がなかなか決まらないものだから、あきらめて大都へ引き返そうとしたら、その途中で決まったという知らせが届いたので、また欧州へ引き返す、という右往左往ぶりを見せています。
奉行苦労しておるな。
与力それと、フビライの任務のうち、宣教師を連れていく件については、ついてきた連中が途中で先行きに恐れをなして逃げ帰ってしまったため、果たせなかったそうですよ。それでも御咎めはなかったようですが。
奉行その任務を達成しておったら、勝利点はどのくらい入っておったのかのう。
キャラクター④ マルコ・ポーロ(1254~1324)
実在が疑われる『東方見聞録』の著者。
与力ヴェネツィア生まれのマルコ・ポーロです。父・ニコロが最初に東へ向かったときに、母親の胎内におったそうです。ですので、17になるまで父の顔を知らずに育っているはずです。
奉行ほっほう。
与力上述の通り、父と叔父に連れられ、陸路で約4年の歳月をかけ、1275年にフビライが滞在していた上都へ到達しました。21歳の時ですかね。
奉行おや、大都ではないのか。
与力モンゴルをはじめ、遊牧民の国家は都をいくつか持っていまして、季節ごとに移動するんですよ。
奉行ほぉ。豪勢なものじゃな。ところで、なぜ陸路だったのか?
与力なんか今のイラン辺りで船を調達したかったようですが、そのあたりの船が長距離の航海に適さなかったんだそうで。
奉行しかし長いことかかったものじゃのう。あとで逃げ出した宣教師がそれを知ったら、やはり逃げてよかった、と思うたかもしれん。
与力フビライに気に入られ、側近として仕えることになったマルコは、17年にわたり政務に参与したり、中国の各地を旅してまわりましたが、フビライ死後の自分たちの処遇を想像して危機感を覚えたらしく、中東のイル・ハン国に嫁入りする王女の護衛という名目を得て西へ移動し、そのままヴェネツィアへ帰着しています。
奉行フビライもよく手放したものだな。
与力その後、ヴェネツィアとジェノヴァの戦争に兵士として参加したマルコは捕虜になりますが、その獄中でペラペラと昔の思い出としてしゃべった内容を、ルスティケロという人が書き取って出版したのが、かの有名な『東方見聞録』(『世界の記述』)ということになります。
奉行獄中での口述か。何やら栄枯盛衰を感じるが…。
与力とはいえですね、最近のモンゴル研究者の方々に言わせると、マルコの語る内容には不審な点が多いのだとか。
奉行なんと?
与力どうも内容が写本ごとに異なっていたり、当時のフビライについて伝える資料の中に、マルコらしき人物がいた形跡がなかったりとか。
奉行ということは、騙りということか?
与力いや、しかし元の宮廷に出入りしていないと分からないようなことも書かれていますから、なんかの拍子で記憶違いをしていたか、あるいはフビライに非常に近い人からの話を又聞きで喋ったか、ということになりますね。
奉行むむむ、では場合によっては彼の約4年の旅というのも真っ赤な大嘘になる訳か。
与力まあ、当時の欧州では、彼の話はよくできたファンタジーとしては歓迎されたようですが、真実とは信じられていなかったみたいです。なにせ彼は中国の富・産物はなんでも超大量ということを強調したかったらしく、話す際に「百万の」という形容ばかりするものだから、「イル・ミリオーネ(百万男)」というあだ名までついていたとか(諸説あります)。ですから嘘つき扱いはされていたかもしれないです。
奉行なんとも不思議な人物じゃな。本当に中国でフビライに重用されていたとすれば…
与力望んで故郷に帰ったものの、栄華を極めた昔の夢から醒めてはいなかったたのかもしれませんね。
キャラクター⑤ ベルケ・ハーン(???~1266)
ムスリムとなった、最初期のモンゴル王族。
与力ベルケ・ハーンは、ジョチ・ウルスの宗主です。ムスリム(イスラム教徒)となったことで知られています。
奉行ジョチ・ウルスとな?
与力以前は「キプチャク・ハン国」と呼ばれていた勢力と同一です。最近ではジョチ・ウルスと表現されることが多いですね。“ウルス”とは、モンゴル語で“国家”“人々”という意味合いです。
奉行ほほう。できるかぎり原語に近い形で表記する的なあれか。
与力彼が治めた勢力は、チンギス・ハーンの長男であるジョチが与えられたキプチャク草原の一体に盤踞していて、その中心都市は、ジョチの次男バトゥが築いたサライでした。
奉行なんだか馴染みのない地名がずらずらと…
与力簡単に言えば、ベルケは西方モンゴル勢力の有力者って感じですかね。第四代ハーンのモンケ・ハーンが死去したとき、その跡目を巡ってフビライとアリクブケという二人の弟が争いましたが、ベルケ率いるジョチ・ウルスは、中立を守っていたそうです。
奉行本家のことなど知ったことではない、と。
与力一方で、バグダードを中心に成立していたフレグ・ウルス(イル・ハン国)との間では今のアゼルバイジャン辺りを巡って、激しく争っていたようで。
奉行激しいのう。
与力ま、ベルケはその争いの中で病死していまいました。
奉行心労かな。
与力ベルケの事績としては、バトゥのサライに変わる新たな都として新サライ(ベルケ・サライ)を造営したこと、また先述した通りムスリムとなり、三万におよぶムスリムの軍隊を率いていたことが史料に残っているところでしょうか。
奉行ふむ。あまり馴染みがない者であったが、なんとのう分かった…ことにしておこうか。
キャラクター⑦ フビライ・ハーン(1215~1294)
“賢き皇帝”の異名をとる第五代ハーンにして、大元大モンゴル国の初代皇帝。
与力一人だけ大都からスタートするフビライさんです。チンギス・ハーンから数えて五代目のハーンということになります。
奉行うむ、なんとのう名前は存じておるな。
与力兄であるモンケが死去した後、弟のアリクブケとの後継者争いを制してハーンの地位を獲得したのち、1267年から大都の造営を始め、71年に国号に中国風の“大元”を冠して、“大元大モンゴル国”の皇帝ということになりました。
奉行なんとも巨大そうな名をつけたものじゃのう。
与力彼の事績は、中国では南宋を滅ぼして中国全土を納め、日本や東南アジアにも遠征軍を送って、従属させようとした様子があります。
奉行おう、元寇じゃな。我が国も手ひどくやられたと聞いておる。
与力はい。実はいまだになぜ日本に大船団を送り込んできたのか、という彼の意図については議論の対象となることもありますが、一つ言えるのは、フビライは日本から欧州まで、おおむねユーラシア大陸の東西を掌握し、モンゴルの支配による秩序の建設を目論んでいたのではないか、ということです。
奉行モンゴルがもたらす世界平和か? とすればなんとも気宇壮大な王者であることよ。
与力いずれにせよ、強力なリーダーシップを発揮した皇帝であったことは間違いありません。その彼に見込まれたとすれば、マルコ・ポーロも大したものだ、ということになるそうです。
奉行Gacktが褒めているから美味い肉、みたいな理屈じゃな。
与力いいんですか、そんなオチで?
キャラクター⑧ ヨハンネス・デ・プラノ・カルピニ(1180?~1252)
欧州とモンゴルの和睦交渉の使者
与力カルピニは、イタリア出身の修道士です。1242年に、モンゴルのバトゥが率いる征西軍がポーランドのヘンリク2世を中心とした軍を撃滅したワールシュタッとの戦い以降、モンゴルの影響力が西欧まで伸びてくることを恐れたローマ教皇が、モンゴルとの和平を図るために派遣したのが、彼です。
奉行なるほどな。大切な使者役だ。
与力彼はバトゥの元を訪れ、更にカラコルムで行われたグユク・ハーンの即位式にも列席しています。しかし、グユクがローマ教皇以下のモンゴルへの屈服を希望したため、和平交渉は失敗し、役目は果たせませんでした。
奉行やむをえまい。モンゴルは勝ちに勝ちを重ねておったからな。対等な和平など考えもせずとも、不思議ではあるまいよ。
与力とまあそういう訳ですが、彼が書いた『モンゴル人の歴史』というローマ教皇への報告書は、モンゴルとはいかなるものか、欧州世界に伝えたまとまった資料として、高く評価されています。
奉行転んでもただでは起きなかったか。
与力もともと彼は外交交渉とキリスト教の伝道が可能かどうかを確認したかったようですが、そのどちらも不可能と判断したため、くだんの報告書は、モンゴルの西方への更なる進出意図の確認と、仮に攻めてきた際に備えてのモンゴル軍に関する分析に多くが割かれております。非常に実用的な内容であったようです。
奉行間諜としては、その役目は果たしたというべきか。ふむ。忍者的役割を果たしたゆえに、移動が神出鬼没なのであろうか?
キャラクター⑨ ギョーム・リュブリキ(1220~1293?)
モンゴルへの伝道を志したフランチェスコ修道会士。
与力この人は「ルブルック」という名前での表記が多いように思いますねえ。フランドル出身の修道士です。
奉行ふらんどるとは、蘭・仏・白三国にまたがる一帯であったかな。
与力そうですね。彼はフランス国王で末期十字軍の熱心な指導者であったルイ9世の命によって、モンゴル勢力との交信のため、東へ向かいました。
奉行ほお。切支丹の熱心な信奉者たる王が、異教徒であろうモンゴルと通じようというのは、いささか不思議な気もするが。
与力確かにそうですね。はじめはルイ9世も、モンゴルと協力してイスラムを叩き、十字軍を成功させたかったようですが、それは既に断られていたようで。リュブリキが東へ向かったのは、モンゴル勢力の中に、キリスト教に改宗した王族がいるらしい、という噂を聞いたことと、前出のカルピニがルイ9世に報告を行う機会があった際、同席したリュブリキが、モンゴルでの伝道に興味を示したため、らしいですよ。
奉行困難だという報告があったにも関わらず、随分と熱心な修道士じゃ。
与力はい。ですので、おそらくリュブリキの目的はモンゴルへのキリスト教伝道だったのでしょう。彼はキリスト教に改宗したというバトゥの息子・サルタクに会いに行き、要件を告げたところ、父のバトゥの所へいくように言われたので、バトゥの所へ行きます。そうしましたら、当時のハーンであるモンケ・ハーンの所へ行くように指示され、結局カラコルムまで行くハメとなりました。
奉行見事に絵に描いたようなたらい回しじゃな。
与力ま、結果的にはモンケに返書を与えられて帰国することになります。そして一連の彼の旅行で得られた見聞は、『東方諸国旅行記』という本にまとめられました。
奉行公式な使者であったからか、こちらはマルコの本のように、お伽噺とは看做されなかったようじゃな。
以上で人物紹介は終了です
与力はい、以上で説明はおしまいになります。
奉行長かったのう。まあ、いずれもマルコ・ポーロと前後して東西を旅した面々であることが、よう分かったわ。
与力お役に立てて光栄にございます。
奉行機会があれば拡張の人物の紹介もよろしく頼むぞ。
与力日本で流通してくれますかねえ…。
奉行祈るのじゃ。囁き、祈り…
与力それ、場合によってはまずいことになりませんか?